正しい目標設定。目標を見つけることが一番難しい。
なんとなくダラダラと日々が過ぎていく。
惰性で動着続けている感覚。惰性を生み出す最初の動きもなかったのだけれど。
そんな毎日だから、少しだけ焦りを感じてしまう。
何か目標を立ててそれに向かって進まないとだめになってしまうような感覚。
目標さえ見つかれば後はカンタンだ。その達成までにやるべきことを小さなタスク単位に分割して、スケジュールを引いてひとつひとつ潰していくだけなのだから。
そう、一番難しいのは「目標を見つけること」、これに尽きる。
正しい目標を設定することさえできれば、モチベーションのことなんて考える必要がない。自然にやる気がでてくるに違いない。
ここで考えてみる。正しい目標とはどのようなものか。
正しい目標とは心から達成したいと思える、自分にあったものでなければならない。
そうでなければ、達成しても虚しさが残る。
無理やり設定した、「資格取得」や「昇進」といった目標はやる気が長続きしない。
設定してすぐの間はいいが、すぐにモチベーションを失い、なぜこんなことをしているのだろうと考え始めてしまう。
それは本心からワクワクするような目標ではないからだ。
仮りそめの目標だからだ。
では、正しい目標設定はどうすればできるのか。
それは、自分を知ることから始まる。自分を知らないで自己実現もなにもない。
就活のときよりも真剣にノートに向かって過去の出来事を棚卸ししている自分がいる。
全てはもっと輝く自分のために。
そりゃね。輝きたいよ。もっとね。今より。
高級キーボードと物欲と。
この度、高級キーボードの代名詞、東プレのリアルフォースを購入した。
キーボードが2万円以上もするなんて、にわかには信じがたい。が、にわかには信じがたかったそんなキーボードも、何度か見ているうちに信じられるようになってしまった。
そして今、この記事を書く入力インターフェースとして僕のデスクの上に存在している。
やはり高いもの、最高だと言われるものはいい。何がいいかって言うと、品質が、ではない。
気分がいいのだ。
この気分の良さは気持ちの良さや爽快感といったポジティブなものだけではなく、若干ネガティブな要素も含んだ気分の良さである。
どういうことかと言うと、「このキーボードが気に入らないんだとしても、これ以上のキーボードは存在しない。ならば、気に入らない点があったとしても、それは改善のしようがないのだから諦めるほかない」という諦観から生まれる、悟りにも似た気持ちよさなのである。
悟りは気持ちがいい悪いの概念を超えた概念だとは思うが。
つまり「これよりもっと良いあれを手に入れたらもっと人生が良くなるのに」といった物欲や、現状を嘆く気持ちがきれいになくなるのである。
人生で何か気に入らないことが合ったとしても、モノのせいにすることができないので、自分の人生の責任をきちんと自分でとろうという気になるのである。
そして、この考えはきっとすべての物欲に当てはまるんだと思う。
お金がもっとあればなという考えも、実際に使い切れないほどのお金を手に入れたら、「お金があれば」という言い訳は言えなくなる。
何か気に入らないことがあっても、お金が問題なのではない。それ以外の何かが原因だということである。
実際には、お金を使い切れないほど持っているわけではないけれど。
日々を振り返ってみると、ついついお金のせいにしてしまっていることがたくさんあるような気がする。
何かの責任にしていることに気がついたら、それを解消するために何か行動を起こすか、解消したつもりで考えて見るべきなのかもしれない。
キーボードを買うだけでこんなことを考えられるのだから、2万円というのも全く高くはないのかもしれない。
まだ使い慣れないけれど。
プロマネとしての進捗管理と僕の人生の目標の進捗
最近仕事でプロマネっぽいことをしている。
自分では何かを作ることはもう無い。会社からアサインされたプロジェクトに対して、いつまでに誰が何をやるのか線を引き、それにそって実行されるよう催促する、カンタンに言うとそんな仕事。
そしてこの進捗管理。
正直な話をすると全く面白いものではない。
対して興味がないプロジェクトに対して責任を負い、大してやる気があるわけではない人に仕事を割り振ってぎちぎちに期限を管理して完成させる、説明させる、評価する。
その繰り返し。
しかも、自分よりも技術的には遥かに高い相手に対して指示を出すことになる。
相手はその道10年で開発に勤しんできた人、一方でこちらは入社後甘やかされた研修と育成計画の転換期のはざまに落ち込んだ世代の入社後数年の若造である。技術力など皆無なのである。
そんな自分が、である。
管理なんかしてしまっている。何故か。
発注する側が強いからである。
立場としては僕の会社は強いのだろう。
でも。
何か作業をお願いするたびに違和感のようなものを感じ、そしてその歪みが少しづつ僕の中のなにかにダメージを与えている感じがする。特にこの頃。
村上春樹ならきっと「スポイルされてしまった」と表現するに違いない心の状態。
つまらないのである。何かおかしいのである、仕事の大半がメールと電話で人に作業を出すばかりのこの仕事が。作業が。体質が。
まあ、それはそれでいい。辛いとはいえ、ある目的を達成する「プロジェクト」が順調に進むのならば。それはそれで意味があるのだろう。
しかし。振り返ってみよう。
自分の人生を。
何か目的があってそれに向かって進捗度を上げていくような、そんな「人生におけるプロジェクト」を持っているだろうかと。
ない。そんなものはない。
今の自分はとりあえず今日一日を耐えるように重い足取りで会社に向かい、なんとか定時までやり過ごし、そして終わらない調整のために残業をし。
未来に向けて何かを進めるなんてもってのほか、今ある輝きを毎日少しづつ失っているような感覚。
これはこれは本当にまずいぞと思うわけですよ。
決して残業が超長時間あるわけではない。決して上司が罵倒してくるわけではない。
決して職場の人間関係がわるいわけではない。
でも。なんか、サラリーマン無理だわ。
それが最近の本音。きついよ。なんか。なんだか。よくわからないんだけど。
何より仕事の他に何か楽しめることがあってそれを人生で育てていければいいのだけれど。
趣味とかそんなレベルじゃだめなんだよね。使命のような何か。
それを見つけないと、その死んだように生きている毎日は変わらないのかもね。
どの職につくのかではなく、何をして生きるのか
新年度の上司とのキャリア面談の準備を通して、久しぶりに仕事を冷静に見つめ直すことができた気がする。
私はシステムエンジニアを職業としているカモである。
新年度が始まるこの時期になると、今年度何を達成したいか・どうなりたいかの成長目標を上司と面談する場がセッティングされるのである。
上司と面談をするとなれば、いくらやる気が無いとはいえ、多少の準備をするもの。
どう成長したいか。今年度だけでなく数年後、どうなっていたいのか。
考える。
考える。
そして思い始める。エンジニアとして俺は本当に成長したいのだろうか?と。
「”システムエンジニアとして”○○の面で成長したいです」と面談ではそれらしく述べる。
そりゃ上司も俺もシステムエンジニアですから。
でも。
本当にエンジニアとして成長したいのだろうか?といえばNoなのだろう。
こんなこと書くと、やる気もなくただ会社にいる時間をやり過ごせばいいぶら下がり人間に思われてしまうが、ぶら下がってやろうなんて気持ちがあるわけでもない。
もちろん成長欲がないわけじゃない。自分の人生をより良くするために成長できるのならそれに越したことはない。
・・・ないのだけれど。
自分の人生を振り返り、そして将来に思いを馳せて見たら、そこには”システムエンジニア”としての成長は含まれていないように感じた。
システムエンジニアの目指すところはいかに素晴らしいシステムを作り上げることができるかにあると思う。
しかし、素晴らしいシステム構築なんてどうでもいいと思ってしまう自分がいる。
本当の本当に素晴らしいものなんてできやしない、という諦めのようなものも少しあるのかもしれないが、仮にできるにしたって、そんなのどこかの誰かが作ってくれればいいと思ってしまう。
それが自分の手から生み出される必要などないように思ってしまう。
そう、カンタンに言えばしっくり来ていないのである。
「天職」の意味が、「この仕事こそ自分がやるべきだという実感を感じられるもの」であるならば、今の状態はその対極にあると言っていいだろう。
そして環境面。
システムエンジニアはIT業界全体の体質としてしょうがないのかもしれないが残業が多い。そして難しい。正直俺には荷が重いと思わなくもない。
そう、簡単に言えば逃げ出したいと思ってしまったのだった。
そう考えはじめると、一つの仕事にこだわっていた今までの自分がすごいちっぽけな存在に見えてきたのだった。
どの職につくかではなく、何をして生きるのか。
人生を捉え直した25歳の夜、と言いたいところだが、まだ何も新しい一歩を踏み出したわけでもない。
ぐるぐる回り始めた。
ただお金があることじゃなくて、お金を得るまでの努力や苦悩や達成感の全部が人生の幸せのために大事なのかもしれない
お金が欲しい。そう思ってた。いや、今でも欲しいんだけどさ。
でももしかして本当に欲しいのはお金そのものではないのかも?そういう話。
ここ一年間くらい株の勉強してる。チャートの見方、四季報の読み方、億り人の手法、経済ニュースの収集etc...
で、年末はトランプ相場もあってひと月で10万円儲かった。
いや、これ自体はいい、単純にお金が増えるのは嬉しい。特に2年目社員にとっての10万円なんてのはそりゃあ大金だよ。
昨日までは何も考えず、ただただお金を増やせて嬉しいなあって思ってた。
で、それに対して今日。今日は地合いが悪いっていうのかな。日経平均もだいぶ下がったし個別で見てもだいたいの銘柄が下げてて、何万円かが一日でなくなった。
悔しい!!悔しい!!・・・ってなるかと思ってたのにそうでもなかった。
むしろ多少のむなしさのようなものを感じてしまった
普通は何万円もの大金(自分にとっては)がモノに変わったわけでもなく、急になくなったりしたら当然ものすごく悔しい、もしくは悲しいはず。少なくとも嬉しくはない。
でもなぜか評価損が膨らんでいっても「ふーん」としか思わなかった。明日になったら株価が戻すことに期待してるとか、いつか戻るから全然痛くないとかそんな話じゃないよ
これはある意味では損益では一喜一憂しないという点でいいことなのかもしれないけど、ここで言いたいのはその時にふと感じたこと
なんか、、お金自体が欲しいんじゃないのかも、、、、って。
いやそりゃお金は欲しい。もし仮に今100万円あげるよってポーンと渡されたらきっと嬉しいよ。嬉しいに決まってる。
でも。でもだよ、嬉しいは嬉しいけど、そんなに(100万円を肉体労働で稼ぐほどは)嬉しくないんじゃないのかな?
だってそれはそのお金を得るプロセスがごっそり抜け落ちているから。
株の話でいえば
年末の10万円が嬉しかったのはある意味で自分の読みが当たったと実感することができたからだとは思う(良い相場の時はだれでも儲かるものだけど)
で、それに対して今日は別に持っていた銘柄が下げただけ。
もちろんその損失をできるだけ回避するのがトレーダーの技術だってのはわかるんだけど、別に自分は何もしていないよなって
その日の相場が上げるか下げるかなんて誰にもわからないし、株で長期的に勝つのはただ確率的に優位に立ち続けた人だけってのは真理だとは思う
でもそれってつまり「技術」じゃなくなっている気がする。
だから株ってただのマネーゲームっていうか、もう少し悟ると「買っても負けてもむなしい」とか言い出しちゃうのかもしんない
で、お金の話に戻ると、お金ってそれ自体はなにも嬉しいものではないってこと
もちろん好きなモノは買えるし好きなものを好きなだけ食べることだってお金さえあればできる。
でもそれだって好きなことができること自体が楽しいんじゃなくて
自分が頑張って稼いだお金のだからこそ、慎重にいろいろな選択肢から一つのモノを選ぶことが楽しいんじゃないだろうか
ここで想像力を働かせて、本当にお金に不自由しない欲しいものが手に入る世界を思い浮かべてみても
旅行とか、大好物を腹いっぱい食べるとかしか思いつかない
いやそれは全然想像力がないよとか思うかもしれない、でもどんなにお金があったって人間にできること以上のことはできないはず
そこでふと考える
あれ? お金があればなあ。。。って思い浮かべる理想の世界なんて本当はないんじゃ?
理想の世界も今自分の目の前に広がる世界も実は同じなんじゃないか?
日常を愛することが幸せにつながるんじゃないか?
って。いや、飛躍しすぎだろと思う人はいると思う。実際自分でもここまでの発想になるとは思ってなかった
でも、やっぱり無尽蔵にお金が手に入る世界は、ある意味で楽しさがなくて
目の前の現実はお金を使う楽しさがあって
お金を使うってことはそこに至るためのプロセス、お金を稼ぐことすべてをひっくるめた行動だってこと
一周まわって当たり前のことを言っている気もするけど、つまりはただ口座のお金が増減してもそんなに人生の幸せにとっては意味がないんじゃないかってこと
ともすると忘れがちだけどね、というより今日はじめて実感したけどね
だから、明日からはありもしないお金の幻想を見るんじゃなくて、目の前のすべての努力と苦悩と困難を別の視点から眺めてみようと思う
お金に限らずね。目の前の現実が理想、いや理想に変えられるんだと信じてさ
ぐわあ!!くさいこと言ってるね!
終わり
ボーナスの使い道が思いつかないなんて考えてたら人生の捉え方の話になった
年末に会社からボーナスを支給されたのだけれど
幸いにして借金もなければ家賃も滞納していない独身者にとって、ボーナスは意外と使い道がない
いや、そりゃお金をもらえるのは嬉しい。つまんないとしか思わない会社に、それでもちゃんと行っている理由はやっぱり「金」だと思うし
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仕事がつまらないから今日からカモは飛ぶ
いや~一体何がどうなってるのか、何でブログなんてはじめちゃったんだろうね?
初めまして、カモです。
いや、カモってなんだよ、いきなり調子こいてんじゃねーよ。まともな自己紹介から始めろやってね
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