ただお金があることじゃなくて、お金を得るまでの努力や苦悩や達成感の全部が人生の幸せのために大事なのかもしれない
お金が欲しい。そう思ってた。いや、今でも欲しいんだけどさ。
でももしかして本当に欲しいのはお金そのものではないのかも?そういう話。
ここ一年間くらい株の勉強してる。チャートの見方、四季報の読み方、億り人の手法、経済ニュースの収集etc...
で、年末はトランプ相場もあってひと月で10万円儲かった。
いや、これ自体はいい、単純にお金が増えるのは嬉しい。特に2年目社員にとっての10万円なんてのはそりゃあ大金だよ。
昨日までは何も考えず、ただただお金を増やせて嬉しいなあって思ってた。
で、それに対して今日。今日は地合いが悪いっていうのかな。日経平均もだいぶ下がったし個別で見てもだいたいの銘柄が下げてて、何万円かが一日でなくなった。
悔しい!!悔しい!!・・・ってなるかと思ってたのにそうでもなかった。
むしろ多少のむなしさのようなものを感じてしまった
普通は何万円もの大金(自分にとっては)がモノに変わったわけでもなく、急になくなったりしたら当然ものすごく悔しい、もしくは悲しいはず。少なくとも嬉しくはない。
でもなぜか評価損が膨らんでいっても「ふーん」としか思わなかった。明日になったら株価が戻すことに期待してるとか、いつか戻るから全然痛くないとかそんな話じゃないよ
これはある意味では損益では一喜一憂しないという点でいいことなのかもしれないけど、ここで言いたいのはその時にふと感じたこと
なんか、、お金自体が欲しいんじゃないのかも、、、、って。
いやそりゃお金は欲しい。もし仮に今100万円あげるよってポーンと渡されたらきっと嬉しいよ。嬉しいに決まってる。
でも。でもだよ、嬉しいは嬉しいけど、そんなに(100万円を肉体労働で稼ぐほどは)嬉しくないんじゃないのかな?
だってそれはそのお金を得るプロセスがごっそり抜け落ちているから。
株の話でいえば
年末の10万円が嬉しかったのはある意味で自分の読みが当たったと実感することができたからだとは思う(良い相場の時はだれでも儲かるものだけど)
で、それに対して今日は別に持っていた銘柄が下げただけ。
もちろんその損失をできるだけ回避するのがトレーダーの技術だってのはわかるんだけど、別に自分は何もしていないよなって
その日の相場が上げるか下げるかなんて誰にもわからないし、株で長期的に勝つのはただ確率的に優位に立ち続けた人だけってのは真理だとは思う
でもそれってつまり「技術」じゃなくなっている気がする。
だから株ってただのマネーゲームっていうか、もう少し悟ると「買っても負けてもむなしい」とか言い出しちゃうのかもしんない
で、お金の話に戻ると、お金ってそれ自体はなにも嬉しいものではないってこと
もちろん好きなモノは買えるし好きなものを好きなだけ食べることだってお金さえあればできる。
でもそれだって好きなことができること自体が楽しいんじゃなくて
自分が頑張って稼いだお金のだからこそ、慎重にいろいろな選択肢から一つのモノを選ぶことが楽しいんじゃないだろうか
ここで想像力を働かせて、本当にお金に不自由しない欲しいものが手に入る世界を思い浮かべてみても
旅行とか、大好物を腹いっぱい食べるとかしか思いつかない
いやそれは全然想像力がないよとか思うかもしれない、でもどんなにお金があったって人間にできること以上のことはできないはず
そこでふと考える
あれ? お金があればなあ。。。って思い浮かべる理想の世界なんて本当はないんじゃ?
理想の世界も今自分の目の前に広がる世界も実は同じなんじゃないか?
日常を愛することが幸せにつながるんじゃないか?
って。いや、飛躍しすぎだろと思う人はいると思う。実際自分でもここまでの発想になるとは思ってなかった
でも、やっぱり無尽蔵にお金が手に入る世界は、ある意味で楽しさがなくて
目の前の現実はお金を使う楽しさがあって
お金を使うってことはそこに至るためのプロセス、お金を稼ぐことすべてをひっくるめた行動だってこと
一周まわって当たり前のことを言っている気もするけど、つまりはただ口座のお金が増減してもそんなに人生の幸せにとっては意味がないんじゃないかってこと
ともすると忘れがちだけどね、というより今日はじめて実感したけどね
だから、明日からはありもしないお金の幻想を見るんじゃなくて、目の前のすべての努力と苦悩と困難を別の視点から眺めてみようと思う
お金に限らずね。目の前の現実が理想、いや理想に変えられるんだと信じてさ
ぐわあ!!くさいこと言ってるね!
終わり